死の探究★日誌3

戦争というものは戦闘行為のみを意味するのではなくて、その本質は平和の確実性が存しない全期間を通じて存在する闘争への傾向のうちにあるーということをホッブスは語った。シュミットは、人間は「問題的 problematisch 」な存在であると書いているそうである。
人間は「死」に定められた存在である。人生は、キャンバスの上に描かれた絵画なのかもしれない。キャンバスの上の絵の具を剥がせば、その下は白いキャンバスが現れるだけである。「死」は、いつでも現れることができる。肉体の生命の確実性が存しない限り、「死」は抗うことのできない傾向として絵の具の下のキャンバスのように存在する。今、私には見えないが、自分の日々のかすかな営みの、その足下か背後か隣りかどこかに「死」の存在を感じるのである。

死の探究★日誌2

死は、私の肉体の死とともに肉体に止まらない存在、精神というようなものも無に帰して、当然に感覚も一切、失われるものであるか、それとも死は単に別の次元への移住に過ぎないかのいずれかではないか。前者なら死は快適な熟睡と同じであろうが、後者なら話はまた違ってくる。もし、死を経過した精神あるいは霊魂というような存在が移住するところの別の次元が、この世と相応の関係にあるとすれば、別の次元にもこの世の諸社会と同様の諸集団が存在すると考えることができる。つまり、別の次元に移住した霊魂の行き先は単一ではないと考えることができる。【2018年9月3日】

死の探究★日誌

幼いときから家庭や学校で教育されたりして、自分が現実の中に当て嵌まっていくのだが、現実の場面で正気であろうとする意識とは別のところに、漠として何ともとらえがたい自分のあることも否定できない。そういうものをユングなどは、「影」と言ったり「無意識の領域」と言ったりしたのかも知れない。それは日常の表面的なあり方が、何かの拍子に裂けて、人格の裂け目のようなところから思ってもみなかった自分として存在を垣間見せるものかもしれない。日常の人格と「影」のような人格とは、この人生においてピッタリと一致はしていないが、ある程度の統合された状態でさえあれば、はみだしたようなものを押さえつけおおせてこの人生の終幕までいけるのかもしれない。押さえつけたとしても、それはコンプレックス(観念連合)のようなものとして、存在を客観的にあらわすのだろう。あるいは、個人の夢や集団の神話としてあらわれたものなのだろう。それは、集合的・普遍的無意識といったようなもの、ユングのいう「元型」のようなことなのかもしれない。【2018年9月2日】