天皇、共産党──戦後、中野重治の「肉感」

中野重治は「五勺の酒」を筑摩書房の『展望』1947年1月号に発表した。年譜によれば、1947年(昭和22年)4月に第1回参議院議員選挙の全国区に日本共産党から立候補し、三年議員として当選した。前年の10月に『アカハタ』の文化部長、1948年(昭和23年)5月には日本共産党文化部副部長になっている。この間に、『前衛』に掲載した論文「『現代における中国文学の方向』のこと」が占領軍の検閲で全文削除、大地震があって日本共産党国会議員団代表として訪問した福井県で占領軍の命令で警察に逮捕されている。中野重治、40歳代半ばであった。

「五勺の酒」に始まる戦後直後の自分の仕事について、中野重治は「現実が観念にまで、しかし肉感的につかみ上げられる所に作者の一つの長所」があり、「それ以上体系にまで進まぬところに作者の弱点がある」と分析している(昭和36年発行の筑摩書房版『中野重治全集・第3巻』「作者あとがき」)。「現実がつかみ上げられ、そこから全く肉感的に観念が形成、展開され、しかもそれが思想として窮極まで体系化される」のであるが、中野の場合、「観念が直接肉感から取られてくるため」に「どうしてもそれが体系にまで進まない」という事情があったという。半面このことは「五勺の酒」において「肉感に支えられぬための」観念的空回りから中野を救い出しているとも言える。
憲法天皇共産党について、「五勺の酒」から少し抜き書きすると──
「生徒たちが、賢くなりかけたまま中途半端な形になつてきたというのが僕の気のもめる観察だ。…とかく共産党がわるいのだ。先へ先へと指導せぬのが悪い。」
「街のひびきも人間の声も聞えなくなつたところで、生活がこだまを呼び出さぬところまでひきこんで顔を見合わしてほつと一息つける天皇たちと、わが家の感じ方、その何にほつとするかでの皮膚感覚の人間的ちがい、それをこそ、共産党が、国民に、しかし感覚的に教えるべきものではないだろうか。じつさい憲法でたくさんのことが教えられねばならぬのだ。そしてそれを、なぜ共産主義者がまず感じて、そして国民に、訴えぬだろう。」
「あれを天皇は枢密院にかけて発布させた。…枢密院は、みなで百三条ある憲法を二十分で片付けてしまつた。…うしろのあの金屏風は、…あの前で御前会議があり、大将会議があった。…いったい共産主義者は、写真でもわかる金屏風独特のあの光り方、あの上品で落着きのある照りに、胸がさされぬだろうか。」
「なんと傍いたい一知半解だろう。何か一つ足りぬためすべてが足りぬ。共産主義者が足りぬためで日本人全体が足りぬ。」
「恥ずべき天皇制の禿(*右側に「頁」)廃から天皇を革命的に解放すること、そのことなしにどこに半封建制からの国民の革命的解放があるのだろう。そしてどうしてそれを『アカハタ』が書かぬだろうか。…道義樹立について、共産党共産主義者以外だれがまつ先に責任を負えるだろうか。そうして、天皇天皇制の具体的処理以外、どこで民族道徳が生まれるだろうか。」
そして中野重治は、『アカハタ』の「日本の民主化にともない皇族の『臣籍降下』が問題とな」ったという記事について、「どこに『臣』籍があるか。それをなぜ『アカハタ』が問題にせぬのだろう。…皇族だろうが何だろうが、そもそも国に臣なるものがあつてはならぬ。彼らを、一人前の国民にまで引きあげること、それが実行せねばならぬこの問題についての道徳樹立だろうではないか」とも書いている。

私は中野重治の「肉感」から生み出された「観念」の深みというものを強く感じた。同時に、これを書くことのできた中野の精神性の確かさも、また当時はまだ共産党員が自分の意見というものを持ち、かつそれを国民に表明できることに健全さを感じた。
この『中野重治全集・第3巻』は、中野が1946年から10年の間に書いた短編小説を収めている(なお全集は新しいものが出版されているが、古本であっても生活保護受給者である私には手を出せなかった)。この10年間で、中野重治は何を書こうとしたのか──「今までの支配者層が、戦勝者として出てきたアメリカ帝国主義に隷属的にむすびついてそのままこの処理を押しきるか、新しく登場してきた主権者としての人民が押しきるかのつばぜり合い」という状況の下での「人民の側が…押しきられていく状況」、そして共産党が「日本の状態を十分歴史的また現実的に捕えきれぬため、…事がらを革命的に順直に発展させることのできかねる悲しさ」。これを、中野重治は描こうとしたのだった。

〔小説〕 党 費 (2)

(2)
まだ健在であった親の助けも受け、売れ残りの物件ではあったが分譲の共同住宅を手に入れて、私は武蔵野市のアパートからN市に転居してきた。私は医学書の出版社から仕事を請けて、一字何銭という校正の仕事をしていた。一年ほど後に、私は校正者になる以前の仕事の同僚の世話で、その妻の妹と結婚した。
すぐ長男が生まれ、それから4年後に娘が誕生した。妻は長男の出産のときに精神の異常を来たした。それ以来、毎月そして四季の変わり目ごとに妻の精神状態は服薬や入院を要するほど悪化した。社外校正者としての私に依頼される仕事の量と収入は月によってかなりの振幅があった。私はこの仕事を続けることを諦めてでも、収入を確実に増やす方途を考えなければならなかった。私は広告会社の営業職に転じたが、結果は私の望んだものとは真逆の方向に出た。
それは家庭崩壊の序曲ともなった。転職そして失職を繰り返した。消費者金融での借り入れも増えた。妻の精神状態は好転への期待を許さないものであった。私の親族は南へ何百キロ、妻の親族は北へ何百キロのところで生活しており、時機を得た助けは望めなかった。妻はあぶら汗を滲ませてうずくまっている。私は妻は「病気なんだ」と分かってはいても、家事も子どもの世話もしないことを叱る。世間から孤立したこの恐ろしい劇場で、何の咎も無い二人の子どもたちの心の痛みが伝わってくる。そういうことが十年以上も続いて、やがて私には病気の妻を抱えていくだけの甲斐性はないと観念した。私は妻と離婚する途を選び、父子家庭の父となった。

神という根源的なものとの交流ということより他に生きていけそうにはないと思った私が、キリスト教会を訪れたのはその頃であった。
ある日曜日、礼拝のなかで牧師は「献金について」説教した。牧師は「主にささげものをしなさいというのが聖書の勧めなのです」という言葉から話を始めた。イエス様の使徒パウロは信者は教会を支援するために収入の一部をとっておくべきであり、ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに献金しなさいと言っている。だから献金は各々収入に応じて行うものであるが、その最低限として勧められているのは「十一献金」すなわち収入の十分の一である。その根拠は神の律法である、すなわち全てのイスラエル人が自分の稼いだものの10%を神殿にささげよという神の命令である。説教は「十一献金の勧めに従うならば、神はあなたがたを大いに祝福なさるのです」という言葉で閉じられ、牧師は祈祷に移った。
このとき私が知ったのは、教会の献金というものは「会費」とは異なる意義や権威を持つということだった。「会費」ならそれは人が何らかの思惑で決めるものであって、それに対して私は「高すぎる」など苦情を言うこともできる。しかし十一献金というのは神の命令であり律法なのである。根拠は示されている。それは神を信じる者の「法」以外の何物でもない。信じるならば、それを守るだろう。逆に言えばこれを守らなければ、神を信じると告白することは嘘をつくことになるであろう。あす親子三人が生きのびていくためには、警備員としての日給7500円(当時、私は酒類を扱う店舗の警備員として就業していた)から一円も欠ける事の容認しがたい私としては、あの説教を聴いたからにはもう正面を向いて教会の交わりに加わることができなくなったのである。

生活保護の受給に当たって、私は福祉事務所から住居の処分を条件として要求された。この3DKの住まいは私の唯一の財産であった。財産とはいっても入居以来、一度もリフォームすることができなかったから室内は荒廃しており、そのままの状態では売却も困難だった。ただ、この住まいのおかげで私たち親子が屋根と壁のあるところで暮らせたとは言える。数か月後に、ある不動産業者にこの住まいをそのままの状態で金1万円也で引き取ってもらい、私と娘は西北町の隣の井深町にアパートを探して転居した(当時、私と長男とはあることでいさかいを起し、大学を卒業すると同時に息子は家を出た。優秀な男子であったが、それいらい連絡を絶つこととなった)。所属の党支部も、日本共産党井深支部に転籍した。
ある日、N市の市民センターで党地区委員会主催の党員集会が行われ、私も参加していた。集会の半ばで休憩が告げられ、私は手洗いに小便をしに赴いた。手洗いは、地区委員会傘下の各支部所属の党員で混み合っていた。私のすぐ後から、党井深支部の副支部長と財政担当を兼ねている大須光夫が来て、左隣の便器の前に立った。大須は「おう」と言った。私は彼は私に何か用があるのだと察した。大須は小便をしながら、右手の親指と人差し指で丸をつくって「2000円、今ある?」と言った。共同便所で小便をしながら他ならない党費の請求をする大須に、私は何となく不愉快になった。半面、便所まで来て党費の請求をする根性は見上げたものという気持ちもあったのだが。私は「今、持ち合わせが無いから・・・」と答えた。

大須光夫は地元の高校を卒業して、隣のK市にある食品工場で定年まで勤務した。労働組合の活動家というわけではなかったが定年後に入党し、80歳近くになった今でも現役の党支部委員として活動している。理論的な話は全く出来ない。「あいつは、もう少し勉強せんと」というのが大方の意見である。しかし本人は「共産党員は俺のようにあるべき」と考えている節がある。大須は世間話以上の水準の話をすることがない。井深支部の新入党者歓迎の集いで十数人が集まったときに、私が生活保護費の削減の問題についてひとこと述べさせて欲しいと言うと、大須は「そういう難しい話は、他でやってくれ」と渋い顔をした。そのとき大須は集いの進行役をやっていた。大須は「年金改善の会」の支部長も兼ねているが、常々「年金改善の会は遊びが6割でやってるからよ」と、してやったりとばかりに吹聴している。こういう人物は現今の党の勢力拡大方策にはぴったりなのか、いわば「引っ張りだこ」であり、宣伝物には「党井深後援会長」「N市生活擁護会井深班長」としても名前を出している。
8月に生活保護費が削減された年の秋のことであった。10人ほどが出席した週1回の支部会議の後で、大須は部屋を出ようとした私を引き止めて「党費、もう少し増やせない?」と話しかけた。私は不意を突かれて、200円の増額、党費として月々合計2000円を受け入れてしまった。党支部事務所を出てから私の内に、怒りとも悲しみとも判別し難い感情が生まれていることに気づかざるを得なかった。党の在り方の指導を支部という場所で草の根から行うべき位置に立ちながら、そして本人は生活保護受給者ではないが貧困者団体を自称する「生活擁護会井深班長」でもありながら、生活保護費だけで生活し続けなければならない党員の実情を察することも出来ないのかという怒りもある。それ以上に、「党規約 第十章 資金」の「第四十六条 党費は、実収入の一パーセントとする」というのは何なのだ?という疑惑である。これは党の「法」ではなかったのか。キリスト教会で献金の根拠は「神の律法」と示された。党費の根拠は「党規約」と示されているのではないか。日本共産党は「法」即ち「規約」によって統治されるのではないのか。それとも、支部委員によって財政委員によって、すなわち人の思惑によってものごとが決められるのか─そうであるならば、「党規約」には何の意味もない。      【「〔小説〕党費」は継続するが、事情によってしばらく間を置くこととする。】

〔小説〕党費

 (1) 

西北支部委員で財政担当の池上尚子は長机を隔て座り、私の前に一枚の厚めの茶封筒をおいた。

「党費を申告して・・・」

私は眼鏡のつるを両手の指で顔面に押し付けながら、封筒にさらに目を近づけた。

「党費は収入の1パーセントね」

すでに党規約を読んでいたので、その「第十章 資金」のところで「第四十六条 党費は、実収入の一パーセントとする」となっているのは知ってはいた。ただ、生活保護の最低生活費の給付というものを「実収入」と言い切ってよいものかかどうか。私には直ちに判断することができなかった。私には収入が無いからこそ、生活保護受給者という立場に立たざるを得なくなったなったのだから。また、中学生の当時から登校に困難を覚えて以来、今も家にいることの多い、30歳になる娘と私は同居しており、娘と一つの世帯として生活保護を受給していたことから来るためらいもある。入党は私個人のことであり、支払うべき党費は私個人の負うべきものである。私の世帯に給付されている金額から、娘の最低生活費を差し引いた金額が私の党費の原資となるべきとかんがえることも出来るだろう。党は、そこのところをどう考えるのだろうか。

生活保護世帯なんだけど・・・」

生活保護でも収入があれば、1パーセントね」

池上尚子には、生活保護費は収入か否かという問題意識は皆無らしい。しかし、西北支部の財政担当支部委員がそういう判断を示すなら、今はそれに従うよりないだろうと私は考えた。

私は生活保護の受給者になる直前まで、夜8時から朝8時の勤務、1回8000円という賃金で週に4回から5回の頻度で警備員の仕事に就いていた。その時は、バスで五つの停留所の距離を自転車で1時間かけて通勤し、会社に申請した交通費は食費の補填に回した。それは父子家庭の父親として娘と二人、生き延びていくための知恵ではあったが、会社に対しては後ろめたいものを内に抱えることになる。生活保護で生きていくものとして、また共産党員として世間に顔出ししようとするものとして、暗いものを内に抱えた生き方はしたくないと考えていたのである。

「党費納入袋」と印刷された茶封筒には、横に1月から12月まで、そして6月と7月の間及び12月の欄の次に「一時金」という枠、縦には「納入日」「党費」「救援救済基金」「議員援助基金」「空白克服募金」「供託金基金」「民青募金」「恒常募金」「選挙募金」そして空白の枠が一つと「合計」欄があって、最後が「受領印」となっている。私は自分の黒色ボールペンで「党費」欄に「1100円」と記入した。これは私の世帯の生活保護の基準生活費11万3000円の「1パーセント」である。それならば、「救援救済基金」以下「選挙募金」までの項目はなんだろう。

「これも党費。それぞれ一口100円以上ね」

「これも党費」が一口100円掛ける7項目で700円、それに「収入の1パーセント」が1100円、合計1700円。党が、こういう資金の徴収の仕方をしてもいいものか・・・私は何となく胸がざわついた。

 

 

大西巨人「深淵」にみる二つの「会」

●反体制・社会主義の試金石

大西巨人「深淵」のなかで麻田布満(あさだ・のぶみつ)は3回、記憶を失い、失踪している。1回目は1985年7月20日に埼玉県与野市から失踪し、同日、西海地方松浦県宝満市にあるエスプラネットホテルのバンガロー近くで、海水パンツだけで倒れているところを丹生持節(にふ・よしとも)・双葉子親子に保護され、1997年4月19日までのおよそ12年間を丹生方の海濱学舎で暮した。2回目は宝満市から突発的に行方不明となり、1997年4月20日に北海道釧路市郊外の道東総合病院西釧路分院で覚醒した。3回目は1999年6月30日にJR新幹線下り、東京発午前10時56分に乗車し、その日の夕方に宝満市の丹生双葉子に麻田からの「広島で途中下車し、そちらへの帰着は明7月1日になる」むねのファクスがあったが、そのまま失踪(おそらく記憶喪失)となった。

私はこの間に麻田布満の近辺で起きた二つの事件ー裁判にかかわる、二つの「会」の在り方から大衆運動・市民運動について示唆されるところがあった。一つは1985年7月、麻田の失踪5~6日前に大宮で起きた殺人事件-橋本勇二の冤罪・誤判事件にかかわる「橋本勇二さんの再審を求める有志の会」であり、一つは1996年5月13日に松浦県宝満市の宝満神社境内で起きた殺人事件ー被疑者として逮捕・起訴された野呂秀次の差戻し審にかかわる「冤罪・誤判に抗議し、公正な裁判を要求する市民の会」の、この二つの対照的な在り方である。

麻田の高校~大学院いらいの「心友」である崎村静雄は、「橋本勇二さんの再審を求める有志の会」の名称や運営の在りかたを含む由来について、次のように述べる。──イプセン作戯曲「民衆の敵」の幕切れで主人公の医師は「独り立つ者、最も強し」と断言するが、レーニンはそのような「一切か無か」という考えにニイチェ主義を看取して批判した。そのレーニンの精神を受けて、ブレヒトは「正しくても、一人では行くな」と強調した。レーニンなりブレヒトなりの尊重したのが、「連帯の重要性」であることは疑いない。──

伊藤秀美は麻田・崎村の高校~大学の同期生であり、橋本の担当弁護人でもある。伊藤弁護士は崎村の弁を継いで、次のように述べる。──「連帯」とは、断じて「恃衆」(衆をたのむこと)、「恃勢」(勢いをたのむこと)ではない。「正しくても、一人では行けない」者たちが手を握り合うのは「恃衆」「恃勢」でしかない。真の「連帯」とは、「正しいなら、一人でも行く」者たちが手を握り合うことだ。「連帯とは、ただちに恃衆・恃勢を指示する」というような生き方は、スターリン主義・似非マルクス主義であって、それは本源的な絶対主義・ファシズムと択ぶところが無い。──

野呂秀治は『臨海タイムズ』の社員記者。『臨海タイムズ』は宝満市で発行される地方新聞であり、社員3人はマルクス主義者を自称し、「日本人民党」に所属する。丹生持節は、この『臨海タイムズ』について次のような「道理の問題」で嫌悪する。──その記事・言論は、なまじいそれが「左翼・反体制」という仮象で現れるだけに、真正の左翼・反体制にとって最も有害である。とりわけ1980年代末~1990年代、その表層の「左翼・反体制」とその内実の「法螺ケ峠・体制順応」は有志の大顰蹙(ひんしゅく)に値する。──

宝満神社境内で起きた殺人事件について、『臨海タイムズ』の事件関係の社説・記事は初手から、検察当局・裁判所・国家権力の権威主義的・市民抑圧的・ファッショ的な属性部分一般を理由として、野呂秀次の無実・冤罪を見境無しに言い立て、市民を反司直・反権力へと煽っては来たのだが、もともと反国家権力・反マスコミ権力である丹生持節がどのように頭をひねっても、『臨海タイムズ』の首唱するような性格の出来事とは見定めない。丹生は、この宝満神社境内殺人事件に関する限りは、検察の起訴、裁判所の第一審判決有罪・控訴棄却に「国家権力の権威主義的・市民抑圧的・ファッショ的な色彩」を看取しないがゆえに、「冤罪・誤判に抗議し、公正な裁判を要求する市民の会」の動向については有害な妄挙と信じている。

『臨海タイムズ』主筆である杉森昌也および日本人民党員である主任弁護士・福井顕太郎の主導になるこの「市民運動」についての麻田の「確信的考察」は、以下のようなものとなる。──杉森の画策とは、「野呂が真犯人か否か、アリバイが真か偽かなどは結局のところどうでもいいのであり、この市民運動の盛り上がりを逃すことなく摑まえることだ」ということを意味するが、この種のパワーポリティックス的な画策は本体的には決して成功せず、現象的に成功しても、それは遅かれ早かれ崩壊する。この実例がスターリン体制下のソ連・東欧など「共産圏」の成り行きだ。この種の「徹頭徹尾反人間的・反政治的経営」は、真正の社会主義マルクス主義の試金石、「反体制の本道」の試金には耐え得ない。──

 

 

 

 

 

 

「ぞっとした」地区委員の官僚主義

●軟体動物

2015年、国・厚労省は私たち生活保護受給者の生活扶助基準・冬季加算・住宅扶助費を引下げてきた。住宅扶助費については、私は娘の別居によって一人世帯となったこともあって、それまでの上限5万9800円から4万9000円にまで引下げられた。不動産屋からは「この家賃だと、ワンルームしかない」と言われたが、それすら独居老人には難しい現実が目の前にあった。2件だけ提示されたうちの1件のアパートに決め、引越し業者にも依頼し、転居の荷造りを始めたのだが、娘の初めての一人暮しへの心配も加えて、かなりの心労を感じていた。

この前夜、私はいつものよう一人、自宅アパートで食事をしていると手に握った箸が何度も手から床に滑り落ちた。食べ物が床に落ちたりもした。翌朝、支部会議に出かけるため靴をはこうとした瞬間、私の身体は右半部から軟体動物のように崩れ落ちた。私は電話機のある位置まで、身体の左半部を「いも虫」のように使って移動し、救急車を依頼した。脳内出血(左被殻)であった。

入院中のある日、契約日の決まっていたアパートについて、貸主側の不動産会社からキャンセルされた旨の連絡が私に入った。その時点でまだ居住していたアパートの退去の期日は既に過ぎており、「低額宿泊施設」という名の”タコ部屋”にでも入れられるのだろうかという不安が現実のことのように思えて、安眠もできない日々を過ごした。

●「批判してはいけない」

入院中のそんな出来事のあった前か後だったか、Sさんが見舞いに来てくれた。Sさんは、共産党の地区委員・N市委員会の副委員長であり、N市とT県の生活と健康を守る会の会長だった。2013年に福祉事務所へ生活保護申請に同行をお願いしたのも、このSさんだった。私は当時の自宅のベッドの上で「餓死か生活保護か」の選択を自らに迫る以前にも、福祉事務所に「こういう状況なので、生活保護を受けたい」という電話を掛けたが「持家だから、生活保護は受けられませんよ」という返答だった。私はインターネットで、地元で生活保護申請の同行で成果をあげている人を検索し、この人が共産党の元市会議員のSさんであることを知った。そして、共産党中央へのメールで『しんぶん赤旗』の購読を申し込んだ上で、Sさんに同行をお願いした。

入院当時、私はN市生活と健康を守る会の事務局長であり、共産党支部支部長だった。これは私が党活動に目覚しい成果を上げて、その地位に上ったということではまったくなくて、「茶坊主」のような従順さがSさんの気に入られてのことで、すべてSさんの一存で決まったことだった。地域の生活と健康を守る会や、N市共産党のSさんに割り当てられている「縄張り」のなかでは、Sさんはそういう権力を持っていた。

そして入院中の私のベッドの傍らで、Sさんは私に次のように述べた。       「地区委員を批判してはいけない。そんなことをするから、みなビックリしていた。」それにたいして、私は「これからはSさんに従いますので、よろしくお願いします。」この時から私は共産党組織に対して抱いた微妙な不信感を、ついに払拭できなかった。

●心持のうえで土下座

私が入院する少し前の、共産党支部支部会議で、次のようなやり取り(大意)が私とSさんとの間であった。                           Sさん「共産党が目指しているのは、憲法の全面実施であって、革命ではない。」  私「共産党の綱領は、社会主義共産主義を目指すと言っている。そのために生産手段の社会化、生産関係を変えることが必要だと言っている。」            Sさん「生産関係は関係ない、変える必要はない。」               私「それでは社会民主主義だ。」                        Sさん「社会民主主義でいい。」                        私「それは綱領が言うことと違う。」

これが「地区委員を批判してはいけない」ということの中身だ。私がこのとき残念に思ったのは、「意見の違い」にではない。私の言ったことは「共産党綱領」の主張そのままであって、個人的な意見などという類のものではない。「綱領」に明白に書いてあることまで地区委員という権力を盾に、自分の不勉強を恥じることもなく、自分の誤りを認めないNさんによって、共産党官僚主義に陥っていかざるを得ないその源泉を知ってしまったということだ。        

そして病院のベッドの傍らで、「Sさんに従います」と思わず心持のうえで土下座をしてしまった自分の有様を振り返って、しばらくの間はじくじたる気持ちが消えることがなかった。とくに共産党のN支部について言えば、一般の支部においては疎外感を抱きがちな状態に置かれた生活保護受給者である党員を中心に、私を支部長に指名してSさんが提案して設立したという経過がある。党員である生活保護受給者には、生活保護が人権であって国の義務であるという意識より、生活保護で「Sさんに助けられたこと」は即ち「Sさんの恩」との気持ちが強い。そして生活保護に関して福祉事務所とのやり取りについても、「私を通さずに勝手なことをするなら、もう助けない」とSさんから釘を刺されている。実際、「元市会議員、現市会議員の後見人、福祉事務所幹部ともツーカー」というSさんに、それこそ「そっぽ」を向かれしたら命取りになるという恐怖感がまとわりつく。Sさんに対して言葉のうえで「敗北宣言」をしてしまった私にもその恐怖があったといわけだ。しかし、脳内出血で倒れて入院という経験を通じて、私には「死への覚悟」らしきものが生まれつつあったらしい、よし、独居老人として孤独死してやろうじゃないか・・・というような。

●「批判することができる」

日本共産党規約」の第二章第五条の(六)では「党の会議で、党のいかなる組織や個人にたいしても批判することができる」と書いてある。共産党の「規約」は単に紙に書いてあるだけであって、共産党のN市のある部分(市委員会副委員長としての「縄張り」)おける実際の組織運営は「規約」の規定ではなく、Sさんの地区委員としての党内権力に従って実行されていた。そしてSさんのこうした官僚主義は、おそらく組織上部もある程度は認識していた上で、その「赤旗拡大・党員拡大」の成果に免じて目をつむってきたということだろう。しかし現代というのは、資本主義からの変革の過渡的な時代であることは間違いないと私は考えている。とすれば、「党内」権力であったSさんのような権力が、旧ソ連や中国や朝鮮民主主義人民共和国といった偽造社会主義国(スターリン主義権力)と同質の日本の「自治体や国の権力」の一部とならないとも限らないと考えたら、私は「ぞっとした」のだった。

完全なる雌雄結合体は究極の繁殖様式

●「深海」と「深淵」と

雌の身体に雄が付着(寄生)する深海魚族であるチョウチンアンコウ類にも、一時付着型、任意寄生型、真正寄生型といったように区分があるとされる。一時付着型は、繁殖期に雄が雌の身体に歯で噛み付いて付着するのであって、組織的な結合はしない。任意寄生型は、べつに寄生しなくても雄は生きてゆけるのだが、いったん寄生したからには雌の身体に完全に癒合してしまう。真正寄生型になると、雌に寄生しないでは雄は生きてはゆけない。この型のミツクリエナガチョウチンアンコウの一例では、体長31.6cmの雌の身体に体長3.5~5.6cmの雄=8個体が寄生していたという。深海という暗黒世界で、単独生活者が確実に繁殖を実現するには、こういうかたちで雌が雄を近くにおいって置くほうが合理的なのだろう。けっして宿主(雌)だけが一方的に不利益を被っているわけではない。雌のほうも広大な暗黒の中で雄を捜し求める苦行をしなくてもよいのだから、相利共生であるとされる。

ミツクリエナガチョウチンアンコウの雄の口部は雌の身体組織と完全に癒合して、雄は雌の身体の肉質突起のような存在になる。雌の身体のどの部位に癒合するかは決まってはいないが、雄の方は生殖腺以外は退化してしまう。

私がつくづく思ったのは、青春の日々に異性の伴侶をついに獲得できなかったのは、結局のところ私には、この深海魚族、ミツクリエナガチョウチンアンコウのような、相手との完全なる癒合を強烈に追及しぬくだけの「熱さ」に欠けるところがあったからだろうということだ。私は人=女性が自己の「深淵」のなかで、何を求めて人=男を伴侶となしうるのかということについて、なにほどのことも認識してはいなかったのだ。恋人であったDさんは、私ではなくMくんを選んだ。Mくんは、鹿島花岡訴訟弁護団の長として歴史に残るよい仕事をなし、若くして亡くなった。私は、Mくんを支えたDさんの選択は正当であったと思った。次に恋人であったNさんは、大学卒業の数カ月前にキャンパスから去り、私とも再び会うこともなかった。Nさんは、滋賀県の有名な重症心身障害児の施設の指導員となったのだった。Nさんは、学生のときから障害児の家庭教師をし、障害児教育を熱く語る、そんな人であった。

大西巨人の「深淵」の解説を鎌田哲哉が書いている。そこで鎌田は、大西が敗戦直後(1946年8月)に書いた「籠れる冬は久しかりにし」という文章を紹介している。──けれども、「籠れる冬」は、ほんとうに去ったのか。あるいは仮りに「冬」は去ったにしても、「立春」の代わりに、実は「新しい別の冬」が、日本に忍び寄っているのではないか。あるいは仮りに「立春」は到来したにしても、その「冬」から「春」への移行は、そこでは何事も単なる政治的合言葉のみによっては済ませられぬはずの「深淵としての人間」の内部では、どのように行われたのか─行われようとしているのか。──

鎌田によれば、ニーチェは「怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならなように用心するがよい。そして、君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む」と語った(「善悪の彼岸」)というが、私はたとえ「怪物」となってもDさんやNさんの「深淵としての人間の内部」を覗き込むのでなければならなかった。そして「深淵」とは、ミツクリエナガチョウチンアンコウの雄と雌とが癒合して生きる「深海」への通路でもあるのだった。

 

共産党-総選挙「惨敗」-指導者の責任

グラムシ著・石堂清倫ら篇『現代の君主』から

 

日本共産党の第27回大会が開かれた2017年1月当時は、私はまだ党員だった。その3ヵ月後に、党費未納分を支払って離党した。

日本共産党27回大会は「大会決議 第4章 国政選挙と地方選挙ー野党と市民共闘の前進、日本共産党の躍進を」のなかで、「来たるべき総選挙の目標」として「①『改憲勢力3分の2体制』を打破、自公と補完勢力を少数に」、「②日本共産党ー”第3の躍進”を大きく発展させる」ということを上げている。そして①に関して「本格的な相互推薦・相互支援の共闘を実現する。…相互推薦・相互支援にならなければ、選挙協力にならない」とし、「ここでの選挙協力に踏み込むならば、政権構想でも野党の一致した考えを国民に示す責任が生まれてくる」としている。②については「2013年参院選に始まり、14年総選挙、15年統一地方選、16年参院選と続いている日本共産党の”第3の躍進”を大きく発展させること」、つまり「全国11のすべての比例ブロックで議席増を実現し、比例代表で第3党をめざす」こと、「小選挙区での必勝区を攻勢的に設定し、議席の大幅増に挑戦する」という目標を掲げた。

10月24日の『しんぶん赤旗』1面の見出しは「共産党は12議席ー共産・立憲・社民3党全体で大きく前進」、2面で「『市民と野党の共闘』候補者が勝利」「”共闘効果”発揮、一本化実現に共産党努力」、3面には「本気の共闘 自民追いつめる」というものだった。

10月23日に開かれた日本共産党中央委員会常任幹部会は「総選挙の結果について」という文書を発表した。そこでは①比例代表では20議席=606万票=11.37%から11議席=440万票=7.91%へと後退したが、その原因は「私たちの力不足にある」こと、②この総選挙での党の大方針は、「市民と野党の共闘」の成功であり、全国67の小選挙区で予定候補を降ろす決断をしたことが、共闘勢力が全体として議席を伸ばすうえでの貢献となったこと、③自公が議席の3分の2を占めたのは、希望の党という自民党の新しい補完勢力が、野党共闘に分断・逆流を持ち込んだ結果であること、④総選挙の教訓を踏まえての決意として、党の自力を強める、つまり党員拡大を根幹にしつつ「赤旗」読者を拡大すること-と主張している。

まず第一に、今回の総選挙は「惨敗」であった事実を認めることがなければ総括は始まらないだろう。27回党大会の「来たるべき総選挙の目標」は何一つ達成することができなかった。選挙協力は、相互推薦にも相互支援にも至らなかった。それどころか”第3の躍進”はストップさせられた。なによりも比例代表での「惨敗」ぶりは事実を隠蔽しきることを不可能としている。

第二に、主体をあいまいにして、事実認識をすり替えるのであってはならないということだろう。「来たるべき総選挙の目標」の主体は、他ならぬ日本共産党ではないのか。「惨敗」したのは日本共産党ではないのか。「大きく発展させる」べき”第3の躍進”とは日本共産党のそれではないとでも言うのか。「共産・立憲・社民3党全体で大きく前進」などというすり替えをやってはいけない。立憲民主党は大躍進、社民党は現状維持、共産党は「惨敗」だったのだ。

第三に、「希望の党という自民党の新しい補完勢力」というものは、突如として地から湧いて出たものではなく、27回党大会の当時には共産党自身が共闘の対象として認知していた民進党の一部分だったことを思い出し、自身の不分明を恥じて総括すべきだろう。27回党大会での「志位委員長の結語」のなかでわざわざ、「全国からの感想でも、3野党・1会派の代表によるあいさつは、『涙がにじんで感激いっぱい』など、強い感動を持って受け止められています」と紹介されている。共産党が涙を流さんばかりに感激した対象のなかに、ずっと以前から「補完勢力」というものは存在していた。マルクス主義はプロレタリア階級の革命党が、当該社会の階級的力関係や当面の情勢を分析するための必須の理論的武器なのだが、日本共産党が「補完勢力」を含む勢力との連帯に涙を流さんばかりに喜ぶなどという醜態をさらすまでに腐り果てたのは、このマルクス主義を捨て、それに敵対する立場に立っているからと言わなければならない。

第四に、共産党は選挙に負けたから「自力=党員・赤旗」拡大に全力で等を言うのではなく、拡大したもののかなりの部分が離党や「未結集党員」化、「赤旗」購読中止により減少していくこともあって、要するに年中・24時間のノルマになっているというのが実態だ。『しんぶん赤旗』(2016年9月13日)には「規約どおりの入党の働きかけを」という記事がある。そこでは入党しても直後から支部会議にも参加しないし党費も納めない、入党させたがそれが「いちじるしく反社会的」な人だったので入党を取消した、街頭宣伝や生活相談で会った人を入党させたりしているが、「どういう人かわからない人には入党を働きかけないこと」など、かなりおそまつな実情が述べられている。こういう実態の下で、支部長や地区の下級官僚は「党員・赤旗拡大」のノルマをどのようにやり繰りしているか。「プラスかマイナスか、それが問題ー執念で日刊紙拡大」と題して、T地区委員会の内部的なニュース(2017年1月1日)に「大晦日の朝7時半、K市議にK支部のT支部長から電話、『「大運動』で日刊紙がマイナスなんです。きょうのお昼まで拡大を受け付けるそうですから、何とかしたいんです』」という記事があった。日本共産党は、現在のような運動づくり・組織づくりを続ける限り、既にはっきりとした行き詰まりを示し、腐臭さえ放っている。

私が日本共産党員として関わったのは支部段階までであって、T地区委員会また特定の地区委員S(N市生活と健康を守る会会長)による支部への「指導」の具体的な在りかたは、日本共産党N支部支部長(またN市生活と健康を守る会事務局長。双方とも私は「茶坊主」でしかなかったが)という立場での体験しか持ち合わせてはいない。とは言え、その立場から、共産党の「指導部」について疑問を呈することも可能なはずだ。その意味で、私がこの問題について示唆を受けたアントニオ・グラムシ『現代の君主』から次の一文を引用しておきたい。

──同一集団内にも統治者と被統治者との分裂が存在して…この領域において、もっとも重大な「誤謬」が生じるのである。…同一集団の原則がたてられたならば、服従は自動的なものとなるべき…と信じられている。…指導者たちの…あることがなされるのを指導者が正しく、合理的であると判断する限り、…それがなされないとしたら、「罪」は「なすべきであった」者に負わされるのだ、等々という確信である。…集団的(政治的)災禍は、大部分、無益な犠牲を避けようと努めなかったためにおこるか、あるいは、他人の犠牲を考慮せず、他人の命をもてあそんだためにおこるものだ、ということを常識はしめしている。だれでも戦線の将校から聞いたことであるが、…たとえば、不可抗力によって糧食がとどかないのだということを知っていれば、中隊は数日間絶食することができようが、軽視と官僚主義、等々のためにただ一度でも食事がぬかされようものなら、この中隊は反乱しただろう。…したがって、つねに、一つ一つの失敗の後で、なによりもまず指導者の責任を追及することが必要であり、しかもこれは厳密な意味においてである。──