天皇、共産党──戦後、中野重治の「肉感」

中野重治は「五勺の酒」を筑摩書房の『展望』1947年1月号に発表した。年譜によれば、1947年(昭和22年)4月に第1回参議院議員選挙の全国区に日本共産党から立候補し、三年議員として当選した。前年の10月に『アカハタ』の文化部長、1948年(昭和23年)5月には日本共産党文化部副部長になっている。この間に、『前衛』に掲載した論文「『現代における中国文学の方向』のこと」が占領軍の検閲で全文削除、大地震があって日本共産党国会議員団代表として訪問した福井県で占領軍の命令で警察に逮捕されている。中野重治、40歳代半ばであった。

「五勺の酒」に始まる戦後直後の自分の仕事について、中野重治は「現実が観念にまで、しかし肉感的につかみ上げられる所に作者の一つの長所」があり、「それ以上体系にまで進まぬところに作者の弱点がある」と分析している(昭和36年発行の筑摩書房版『中野重治全集・第3巻』「作者あとがき」)。「現実がつかみ上げられ、そこから全く肉感的に観念が形成、展開され、しかもそれが思想として窮極まで体系化される」のであるが、中野の場合、「観念が直接肉感から取られてくるため」に「どうしてもそれが体系にまで進まない」という事情があったという。半面このことは「五勺の酒」において「肉感に支えられぬための」観念的空回りから中野を救い出しているとも言える。
憲法天皇共産党について、「五勺の酒」から少し抜き書きすると──
「生徒たちが、賢くなりかけたまま中途半端な形になつてきたというのが僕の気のもめる観察だ。…とかく共産党がわるいのだ。先へ先へと指導せぬのが悪い。」
「街のひびきも人間の声も聞えなくなつたところで、生活がこだまを呼び出さぬところまでひきこんで顔を見合わしてほつと一息つける天皇たちと、わが家の感じ方、その何にほつとするかでの皮膚感覚の人間的ちがい、それをこそ、共産党が、国民に、しかし感覚的に教えるべきものではないだろうか。じつさい憲法でたくさんのことが教えられねばならぬのだ。そしてそれを、なぜ共産主義者がまず感じて、そして国民に、訴えぬだろう。」
「あれを天皇は枢密院にかけて発布させた。…枢密院は、みなで百三条ある憲法を二十分で片付けてしまつた。…うしろのあの金屏風は、…あの前で御前会議があり、大将会議があった。…いったい共産主義者は、写真でもわかる金屏風独特のあの光り方、あの上品で落着きのある照りに、胸がさされぬだろうか。」
「なんと傍いたい一知半解だろう。何か一つ足りぬためすべてが足りぬ。共産主義者が足りぬためで日本人全体が足りぬ。」
「恥ずべき天皇制の禿(*右側に「頁」)廃から天皇を革命的に解放すること、そのことなしにどこに半封建制からの国民の革命的解放があるのだろう。そしてどうしてそれを『アカハタ』が書かぬだろうか。…道義樹立について、共産党共産主義者以外だれがまつ先に責任を負えるだろうか。そうして、天皇天皇制の具体的処理以外、どこで民族道徳が生まれるだろうか。」
そして中野重治は、『アカハタ』の「日本の民主化にともない皇族の『臣籍降下』が問題とな」ったという記事について、「どこに『臣』籍があるか。それをなぜ『アカハタ』が問題にせぬのだろう。…皇族だろうが何だろうが、そもそも国に臣なるものがあつてはならぬ。彼らを、一人前の国民にまで引きあげること、それが実行せねばならぬこの問題についての道徳樹立だろうではないか」とも書いている。

私は中野重治の「肉感」から生み出された「観念」の深みというものを強く感じた。同時に、これを書くことのできた中野の精神性の確かさも、また当時はまだ共産党員が自分の意見というものを持ち、かつそれを国民に表明できることに健全さを感じた。
この『中野重治全集・第3巻』は、中野が1946年から10年の間に書いた短編小説を収めている(なお全集は新しいものが出版されているが、古本であっても生活保護受給者である私には手を出せなかった)。この10年間で、中野重治は何を書こうとしたのか──「今までの支配者層が、戦勝者として出てきたアメリカ帝国主義に隷属的にむすびついてそのままこの処理を押しきるか、新しく登場してきた主権者としての人民が押しきるかのつばぜり合い」という状況の下での「人民の側が…押しきられていく状況」、そして共産党が「日本の状態を十分歴史的また現実的に捕えきれぬため、…事がらを革命的に順直に発展させることのできかねる悲しさ」。これを、中野重治は描こうとしたのだった。